「ほらそろそろボクは出掛けちゃうぞ、ヴェル君。」
「Mили, вай……со эс кхмарласэ……(待ってよ、姉ちゃん……焦り過ぎだってば……)」
玄関に立つ姉の影が見えた。彼女は待ちくたびれたかのように手を組んで、背を伸ばしていた。
言葉が違うものでも通じあえるのは、姉がこの言葉――シェオタル語の研究者だからであった。俺もシェオタル語を知っている。だから、俺と姉は二人の間だけで秘密の会話が出来る。ヴェルという自分のニックネームも彼女が自分に付けてくれたものだった。
「Йол ми тюдест йа!(もう行っちゃうよ!)」
早く来るよう催促する姉は玄関で腕を組んで不満げにしている。俺はその声を聞いて焦った。自分の持ち物を確認すると姉のもとに走る。小学三年生となった今年の誕生日に買ってもらったお気に入りのバッグに帽子、忘れ物はない。
街は賑やかだった。
年末祭の屋台が残る今は一月、雪で真っ白に覆われた瀬小樽(せおたる)の街はどこを歩いてもしゃくしゃくと雪を踏み潰す音が聞こえた。それが楽しくて何ら欲しいものもないのに姉の買い物について行くことにした。
「Зэлэнэ хармиэ со зэност фаллэр каштлурк?(今日は何の昔話が聞きたいかな)」
「うーん……」
姉は俺の方を見てにこにこしている。シェオタル人特有の銀色の髪が陽光を受けて独特の光沢を放っていた。ポニーテールと一本飛び出たまとまった髪の毛が可愛らしかった。いつ見ても研究者というステロタイプに似合わず綺麗な姉だと思う。
この瀬小樽には二人以外にシェオタル語を知っている者は居ないと言っても良い。姉は昔はもっと多くの瀬小樽の人が知っていたというが、俺は話せる人間には会ったことがない。だからこそ、安心して二人だけの秘密の話が出来る。そうやって姉からは面白いシェオタル語の昔話を幾つも聞いていた。姉とシェオタル語を話せる時が自分にとって一番楽しい時だ。
「そうだ、ブラーイェの話をしてよ」
「ふふっ、これで何回目?」
姉はしょうがないとばかりに微笑んだ。だが、全く嫌な素振りは見せなかった。彼女自身も|守護者《ブラーイェ》の話は好きなのだろう。
ブラーイェ、瀬小樽を守る魔導守護者の話である。シェオタル人が滅びようという時、悠久の時を越えて復活し敵を滅ぼす。そういう感じの昔話だった。シェオタル人を滅ぼそうとする憎悪と悪意しかない人々が、守護者たちによって薙ぎ倒されていく話のオチは何度聞いても心が熱くなった。
そんなこんなで歩いているといきなり姉が俺の髪を触ってきた。
「というか、その長い髪切りなよ?後ろ髪なら良いけど、前髪が目に掛かるのは――」