雇われた愛

「お願い, 先生. 彼を助けてください. 私にできることは何でもしますから. 」私は電話越しに, 夫・翔鶏の命を救うため, 骨髄提供を懇願した.

しかし, 手術を目前に控えた病院で, 夫は愛人の友穂に寄り添い, 私に冷たく言い放った.

「適合するドナーが見つかったんだ. 君は俺が死ねばいいと思っているんだろう. 」

世間は友穂を「献身的なパートナー」と称賛し, 私を「夫を理解しない冷たい妻」と非難した. 友穂は勝ち誇ったように私から家も思い出も, 全てを奪い去っていく.

私の最後の愛は, 彼には憎しみとしてしか届かない. 心は完全に壊れ, 私は離婚届にサインし, 自分の存在をすべて消し去ることを決意した.

しかし数ヶ月後, 私の骨髄提供同意書と残された写真を見つけ, すべてが愛人の嘘だったと知った夫は, 血の滲むような後悔と共に, 私を探しに異国の地まで追いかけてきた. そして, 私の目の前で離婚届を破り捨て, こう言った.

「もう二度と, 君を離さない. 」

第1章

奈緒子 POV:

「お願い, 先生. 彼を助けてください. 私にできることは何でもしますから. 」私の声は震えていたが, 決意は固かった. 私は電話越しに, 広津先生に懇願した.

「奈緒子さん, その決断は…本当に後悔しないの? 」広津先生の声は重く, 心配の色を帯びていた. 「骨髄提供は簡単なことじゃない. 」

「後悔なんて, ありえません. 」私は即座に答えた. 迷いはなかった. 翔鶏のためなら, どんな痛みも耐えられる. 「彼が助かるなら, 私は何もいりません. 」

電話の向こうで, 先生は深くため息をついた. 「分かった. 君の意思を尊重しよう. だが, このことは決して誰にも話してはいけない. 特に翔鶏君には. 」

「はい. 約束します. 」私は絞り出すように言った. 秘密を抱え込むことの重みに, 胸が締め付けられた.

電話を切った後, 私はソファに沈み込んだ. 手に持った受話器は重く, まるで私の未来のようだった. 窓の外は夕暮れ時で, オレンジ色の光が部屋に差し込んでいたが, 私の心は鉛のように沈んでいた.

テレビのニュースが突然, 部屋の静寂を破った. 画面には, 夫である高見翔鶏の姿が映し出されていた. ニュースキャスターは, 彼の体調が優れないことを報じていた. 私は画面を凝視した. 翔鶏は少し痩せて見えたが, その表情は毅然としていた. 彼の隣には, 見慣れた女性の姿があった. 桜田友穂. 彼女は翔鶏の手を優しく握り, 心配そうな顔で彼を見上げていた. その姿は, 世間には「献身的なパートナー」として映るだろう.

アナウンサーの声が続く. 「高見翔鶏氏の病状について, 音楽界全体が心を痛めております. しかし, 首席ヴァイオリニストである桜田友穂さんの献身的な看病が, 彼を支えていると報じられています. 」

私は, 友穂が翔鶏に寄り添う姿を見て, 胸に鋭い痛みを覚えた. 世間は彼女を「夫を支える美しいヴァイオリニスト」と褒め称え, 私を「夫を理解しない冷たい妻」と非難する. そんな記事を何度目にしただろうか.

私はリモコンを手に取り, テレビの電源を切った. 画面は真っ暗になり, 私の心と同じように冷え切っていた. 現実から目を背けたかった. この家は私たちの愛の巣だったはずなのに, 今は私を責める声が満ちているようだった.

その時, 玄関のドアが開く音がした. 翔鶏と友穂の声が聞こえる. 彼らはもう, ここを自分たちの家だと思っているのだろう. 私は, まるで不法侵入者であるかのように身を縮めた.

翔鶏はリビングに入ってくると, 私を見て眉をひそめた. その目には, 明らかに不快感が宿っていた. 「まだいたのか. 」彼の声は冷たく, 私に向けられる言葉はいつもそうだった.

友穂は翔鶏の後ろに隠れるように立ち, 心配そうな顔で私を見た. 「奈緒子さん, お帰りなさい. 翔鶏さん, 顔色が悪いわ. お部屋で休んでください. 」彼女の声は優しかったが, その視線は私を射抜くようだった.

翔鶏は私を無視し, 友穂の言葉に従うようにソファに座った. 彼は友穂の手を握り, 微笑んだ. その笑顔は, 私に向けられることは決してないものだった.

「どうしてここにいるんだ? 君は俺が死ねばいいと思っているんだろう. 」翔鶏の言葉が, 私の胸に深く突き刺さった. 私の心臓は張り裂けそうだった. 彼が私に抱いている感情は, 憎しみだけなのだろうか.

「翔鶏さん, 奈緒子さんも心配しているのよ. 」友穂はそう言ったが, その声には微かに勝利の響きが混じっていた.

翔鶏は友穂の頭を撫で, 優しく微笑んだ. 「君は優しいな. だが, 彼女は違う. 彼女の心配など, 俺には必要ない. 」

私は言葉を失った. この家は, もはや私の居場所ではないのだと, 突きつけられているようだった. 私の心は凍りつき, 指先まで冷たくなった.

友穂は, その様子を満足げに見ていた. 彼女は私の存在を否定し, 私の菓子作りを否定した. 私がコンクール用にデザインした新作の図案まで盗んでいった. 私にとって, それは魂を削り取られるような行為だった.

私は, 病院での光景を思い出していた. 翔鶏の病室で, 友穂が彼の手を握り, 耳元で何かを囁いていた. 翔鶏は微笑み, 友穂の髪を撫でていた. その光景は, 私にとっては地獄だった.

私は, 彼が友穂を愛していることを知ってしまった. 私の愛は, 彼には届いていなかった. もう, 彼を苦しめる必要はない. 私は, 彼への最後の愛として, 人知れず骨髄提供を決意したのだ. 私の心は, 完全に死んでいた.

友穂は翔鶏に寄り添い, 甘えた声で言った. 「ねえ, 翔鶏さん. このお家, 私に任せてくれる? 奈緒子さん, もうすぐ出ていくでしょう? 」

翔鶏は私を一瞥し, 冷酷に言った. 「ああ, 好きなようにすればいい. どうせ彼女は, もうすぐここにはいない. 」

私の息が詰まる. 彼は, 私がこの家を出ていくことを望んでいるのだ.

友穂は得意げに私を見た. その目には, これ以上ないほどの侮蔑が宿っていた.

「分かったわ. 私が全部片付けるから. 」友穂はわざとらしく私の言葉を繰り返した.

翔鶏は何も言わず, ただ私を軽蔑する目で見ていた. その目は, 私を存在しないものとして扱っていた.

私は, 唇を噛みしめた. この状況で, 何かを言い返す力は残っていなかった. ただ, この場から逃げ出したかった.

「あの, 翔鶏さん…離婚届のことですが…」私は震える声で言った.

翔鶏は驚いたように私を見たが, すぐに冷たい表情に戻った. 「ああ, それなら友穂に渡してある. サインして提出しておけ. 」彼は友穂に視線を移し, 優しい声で言った. 「友穂, あいつに渡してやるんだ. 」

友穂は満足げに微笑み, 私の前に離婚届を差し出した. 紙の上には, すでに翔鶏のサインがあった. 私の心臓が, 鉛のように重くなった.