ホテルのスイートルーム。照明は薄暗く、どこか艶めいていた。
津本薫は、見知らぬ美しい男と、もつれ合うように激しく口づけを交わしていた。
今夜、元恋人の各務将人が婚約を発表した。彼女はやけ酒をあおるようにバーで泥酔し、酒と男の魅惑に身を委ね、この部屋までついてきたのだ。
四年の交際を平然と切り捨てて、資産家の令嬢と手を組んだ男。
そんな将人を見限ったのなら、自分も一度くらい、はめを外しても罰は当たらない…。
――それが、ほんの出来心だった。
男の肩に身を預け、薫はすべてを忘れ、まるで猫のように甘えながらその名をつぶやいた。「…将人」
その瞬間、すべてが凍りついた。
小さな音がして、部屋の照明がぱっと灯る。
明るくなった室内で、彼女はようやく男の顔をはっきりと見た。
鶴間尚輝――国内屈指の大弁護士、法曹界では『閻魔様』と恐れられる人物だった。 名義上の資産も数え切れない。まさに都会のエリート中のエリート。
しかも彼には、もうひとつ厄介すぎる肩書きがあった。各務将人――あの浮気男の義兄なのだ。
薫の酔いは、一気に吹き飛んだ。
そっと目を閉じる――やってくれるわ、自分。危うく、元カレの兄と寝るところだったなんて!
鶴間尚輝は、彼女の体から手を離した。
壁に寄りかかりながら俯いて煙草をくわえ、火を点ける。煙を吐きながら、視線で彼女をゆっくりと上下に値踏みするように見つめた。その顔には、どこか愉快そうな色が浮かんでいた。「面白いな…津本さん」
鶴間は灰を落としながら、笑っているのかいないのかわからない表情で、ふっと問いかけた。 「俺とキスしてた時、どんな気持ちだった?俺を抱いて、各務将人を思いきり見返してやろうって?」
――どうやら彼も、彼女が誰なのか気づいていたようだ。
薫は、もう知らないふりなんて通用しなかった。
鶴間尚輝の名前はあまりにも有名だ。たとえさっきまで本気で気づいていなかったとしても、今さら「存じませんでした」と言うのは、あまりにも白々しい。