神になる
作者崔 彰寛
ジャンルファンタジー
神になる
翌朝を迎えると驚いたことに、ゼンに手枷足枷と防具を付けて武道館に連れて行くための用心棒は地下室に現れなかった。 だが、玄器の千磨百錬の過程に殴打されることが不可欠だったので、ゼンは自ら防具を付けて武道館に向かった。
一族の舵を取る叔父さんたちは規則を破ったものに罰したりもしなければ、 その息子たちも我が物顔で跳梁跋扈、 特にペリンとアンドリューはそもそも家訓など眼中にない様子だった。 おそらくそれが、ルオ家の一部の使用人があのように傲慢になった理由だろうと、ゼンは荒れ荒んだ今のルオ家に少なからずの不満を抱いていた。
しかし、他宗においてどんなにルオ家の規則が軽視されたとて、ゼンは物事ついた頃から大切にしてきた価値観を決して無碍にすることはできなかった。 また、他の者がルオ家の規則を公然とないがしろにしたとしても、その考えをゼンに押し付けることも間違っている。 彼は衒学者ではなかったが、家訓に基づく揺るぎない道徳心と価値観を持っていたのだ。
武道館に着くと、いつもとは少し雰囲気が違うような気がした。
前日にゼンがダレンとグレイを打ち負かしたという噂はすでにすっかり広まっていた。
2年前、あらぬ罪を着せられ、ゼンは家族を殺され、 自分もルオ家の奴隷となり、 外から調達してきた本物の罪人と同じように、武道館で人間サンドバッグとして働かされていた。 彼は喧嘩にはまったく無関心で、 ルオ家の子供たちが繰り出した如何なる攻撃も、ただ怒りを手放し耐え忍び、まるで従順な羊のように黙って受けていた。
そのうち人々は、ゼンがかつてルオ家の若様だったことを忘れ、 最年少で筋肉精錬の境地に到達した者の一人であったにもかかわらず、 彼の強ささえも忘れ去られていた。
前日の事件の後、子供たちはゼンが「従順な羊」の如く何もかもを甘んじて受け入れるとは限らない、ということに気付いた。 彼が暴行を受け続けることを甘受していたのは、自分たちも同じルオ家の血を受け継ぐものだからだ。
そして一族に属していない者の彼に対する無礼は断じて許されるものではなかった。
それを知り、ルオ家の子供たちは今、ゼンに尊敬の念すら抱き始めたので、 師範のコーリーが子供たちにサンドバッグを選ぶよう言ったとき、誰一人としてゼンを選ぶ者は現れなかった。 それは禅にとっても驚きだった。 この殴打が武器の精錬にどれほど重要であるかが判明してからというもの、今日殴打されるのが待ち切れなかったのに。
ゼンは苦笑いした。
玄器の千磨百錬のために殴られなくてはいけないのに、子供たちは彼をサンドバッグとして選んでくれなくなった。どうしたものかと、彼は悩まずにはいられなかった。
子供たちに彼をぶん殴るように頼みたいのはやまやまだったが、 そもそも、人間サンドバッグは楽しい仕事ではない。そしてそのサンドバッグが殴打を懇願したのなら、逆に変に思われるだろう。 それに、なぜ自分が殴られたいかの理由も、決して明らかにすることはできない。
サンドバッグの選択が終わると、ゼンだけが武道館の隅にポツンと残されていた。 たかが昨日の一件で怖気づいてしまうとは…お前らそれでもルオ家の血筋か? と、ゼンは思わず内心愚痴をこぼした。
彼は石像を使って練習していたメルビンに歩み寄って言った。「メルビン、ずっと石像を殴っていても面白くないだろう? 特訓の手伝いしてやるよ」
「えっ…」 メルビンは眉をひそめて答えた。 数日前、ゼンと手合わせして彼の強さを目の当たりにし、その後グレイとダレンが滅多打ちに遭った話も聞いたメルビンは、正直なところこの元若様と戦うのが怖かった。
「僕はサンドバッグとしてここに居るのだから、 君の鍛錬に付き合うのは僕の役目だろ! 大丈夫、革の鎧は頑丈にできていて、 しっかり守ってくれるから」 と、自分の胸を軽く叩きながら言った。
ゼンの申し出を聞き、メルビンは快諾できない自分自身を恥じた。 もし断ったらみんなにどう思われるだろう? 毎日訓練を欠かさないルオ家の子供たちは、本来であれば毎日ぼろぼろに打たれて傷ついたサンドバッグよりも遥かに強く、粘り強さも、負けん気も人一倍、いや十倍あるはずなのだ。 弱っちいと思われて、 ナメられたらどうしよう? だからって、ゼンを怒らせて、ダレンとグレイみたいにぼこぼこにされるのは絶対嫌だし…
みんなに馬鹿にされたくない、でもゼンは怖い、と、メルビンは葛藤していた。 実のところ、最近動きにキレがなく、前ほど強くはなかった。 以前の強さで100点を獲得できていたとして、今ではせいぜい5、60点しか取れていない。
メルビンは肩をすくめ、しぶしぶゼンの申し出を受け入れた。 やはり、他の子供たちの見ている前で尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかなかったのだ。 練習が始まると、ゼンはメルビンが躊躇した理由に気付いた。 メルビンの拳の強さは玄器を精錬するのに不十分で、 今回の殴打がゼンの身体に与えた影響は、前回には遠く及ばなかった。 不満に思ったゼンは、逆にメルビンに稽古をつけ始めた。
「もっと力を込めて! そう、そこで思い切り打って!」
「拳が遅いぞ! 心配な事でもあるのか?」
「とても良くなってはきているけど、それでも昨日ほどではない」
ルオ家の子供を指導するサンドバッグを見るのは非常に珍しいことで、 ましてや、そのサンドバッグがもっと強く打つように頼むなど、前代未聞だった。 武道館に居た子供たちは皆、信じられないといった様子で二人を見ていた。 ゼンとメルビンの稽古を見ている間、彼らの口はずっと開いたままだった。 いったいどういう風の吹き回しでゼンが稽古をつけているのか、見当もつかなかったからだ。
いまやメルビンは、他の子供たちのことなどどうでも良くなっていた。 初めはゼンにからかわれたのではないかと勘違いして、 その言葉に腹を立てていたが、 しかし、やがて自分の勘が徐々に戻って、キレもどんどん良くなっていることに気付いた彼は、怒りなど忘れて鍛錬に夢中になり、 その手足の運びも良く、本来の力も段々取り戻して来た。
「バーン!」
「バーン!」
「バーン!」
ゼンは床に倒れ込み、身体に温もりが流れ始めるまで悶えた。 そうして、メルビンの拳の力はゼンの胸からやがて全身へと沁みわたっていく。 その繰り返しの中、ゼンはまるで繭から絹が巻き取られるように、骨の不純物が精製されていくのを感じた。
その一撃一撃で浄化されていく 骨の強度が増すにつれ、ゼンは強くなってきていることを実感した。
ただメルビンに打たれるだけで魔法薬を飲んだと同様の効果を収められるという、 質的変化による喜びは言葉では言い表せないものだった。 だがゼンは、殴られるたびに、苦しんでいるように見せかけることを忘れなかった。 痛みに顔を歪めながら、密かに、自分の身体が受けている洗練に喜びを感じていた。 「もっと激しく叩いて!」という心の叫びを飲み込むには、相当の自制心を要した。
用心棒が銅の壺に診ずを補充するために現れたのを見て、ゼンは微笑んだ。 銅の壺というのは水時計のことであり、 壺の底の小さな開口部から水が滴り落ちる仕組みになっていて、 そして満タンの壺が空になるまで2時間を要す。 ゼンは用心棒が何回補充に来たかを熱心に数えていたが、 3回補充されたので、すでに6時間が経過したことになる。
そしてそれは、食事の時間を意味したので、ゼンは幸せな気持ちになった。 しかし食事と言っても、おいしい料理が振舞われるルオ家の子供たちと違い、奴隷たちに与えられるものは冷たい水と固いパンだけ。いつもの彼なら、それをいやいや口にするところだが、今日は、お腹がペコペコで、何でもいいから食べたかった。
精製の過程には莫大なカロリーを消費するらしく、 3時間の精錬と訓練の後、身体が飢餓状態に陥り、 食べ物が口に合わないことなどもはやどうでも良かったゼンが パンをつかみ、それを口に詰めようとした瞬間、誰かに邪魔された。
そして目の前に突然、美味しそうな香ばしい肉がたっぷり入った磁器のたらいが置かれた。
驚いて見上げると、目の前にメルビンが立っていて、 「よかったら俺と一緒に食おうか」と、お椀をゼンに手渡しながら言った。
ゼンは彼の厚意を受け、感謝の気持ちを込めて微笑むと、一握りの肉をつかんだ。
「お前グレイを打ち負かしたらしいな、 気をつけろ、あのアンドリュー様が黙っていられるとは思えない」とメルビンは耳打ちした。
しかしサンドバッグになってからずっと 美味しい肉を食えたことがなかったゼンは ただ目の前の食べ物をむさぼり尽くそうとした勢いで、 咀嚼しながらうなずいた。 メルビンが親切心から教えてくれていることは彼が既に百も承知していることだった。
何といっても、ルオ家の元若様である彼は、ルオ家の、特にこのような水面下のいざこざを誰よりも熟知していたのだ。