俺の妻はそっけない女
予定より早く会社に到着した。 ジャスティンは静かに彼らの会話に耳を傾け、 お利口にするふりをしながら、大人たちの会話を注意深く聞き取り、一言も聞き逃さない。
「ジャスティンちゃん、ルークおじさんと一緒に先に帰ってもいいですか? 今夜は会議があるんだ。 終わったらすぐに帰るよ」とエドワードが話しかけた。 はいはい、会議ね、 一体どんな会議やら、 と小さな男の子は思った。 本当のところ、エドワードはただ美しい女性たちに会いたかった。 しかし、たかが5歳の子供だと思って相手をなめたら、ひどい目に会うぞ。 なぜなら、そっちはもうママのためにパパを取り戻すことを決意していたから。 ママの居場所を確保するために、まずは父親の側を離れないことだ。
「嫌だ、まだ帰りたくない。まだノートパソコンを貰ってないもの」 ジャスティンはその場に残る言い訳を見つけた。
「どうして帰りたくないの? ノートパソコンなら今秘書に連絡してすぐに届けさせるから」 と、息子を少し煩わしく思ったエドワードが言った。
「戻りたくないったら戻りたくない。 ママは僕をおじさんに預けるためにわざわざここに来たんでしょう?もう置き去りにするの?」 ああ!この子は何でまたそんな罪悪感を抱かせるようなことを言うんだ。 先に帰って待ってるように言っただけなのに。 今となっては彼はどうやってこの小さな男の子を放っておけるだろう?
「置き去りにするなんてしないよ! パパにはもう少しお仕事をしないといけないから、先にルークおじさんと一緒に家に帰って、分かった? お仕事が終わったらすぐに戻るって約束するから」 信じられるかよ! 「お仕事」を終えるまでにどのくらい掛かるのか? 女性たちとの約束を果たすのに一体何時間掛かるかは、神のみぞ知ることであろう。 まあ、幸いジャスティンはそれで簡単に納得するほど単純ではないのだ。
「でも一人で帰りたくない! 連れて行ってくれればいいじゃない! お利口にして絶対に邪魔しないって約束するから!」 ジャスティンは同情を誘うように目をぱちぱちしながらエドワードを見つめた。その可愛さは反則だろう。 通常であればこの様な手は使わないのだが。
あの手この手に振り回され、エドワードは完全に混乱していた。ジャスティンは一体何をしようとしてるんだ? 最初、ジャスティンはとても合理的で大人びているように見受けられたが、今の彼はブリッ子かと思うような可愛い仕草で駄々を捏ねている。 なぜエドワードはジャスティンの思考について行けなかったのか? 誰がジャスティンのような可愛い小さな子供の要求をバッサリ切り捨てられるだろう? 「分かったよ! 一緒に来ていいよ! だけど、今夜だけはダメ」その最低限の条件さえ飲んでくれれば、エドワードにはそれ以上その少年の要求を退けることは出来なかった。
「さあ、ジャスティンちゃん、お望み通りに出発しよう!」 と言って、今度はジャスティンを抱きかかえなかった。 先頭だって車から降りるなりその暑さに衝撃を受けた。 彼は小さな肉付きの良い手をぎゅっと掴み、すぐに建物の中に避難させた。 あと一分でも長く外に居たら、汗だくになって溶けてしまうような暑さだ。
ジャスティンは心底驚いてエドワードを見た、「なぜこの人はこんなに暑さを恐れているんだ?」 と思った。 ジャスティンはもう暑い天気に慣れていて、別段暑さを厭わなかった。 軍隊では、すべての兵士が燦燦とした太陽の下で訓練を受けるのが日常だったので、 ジャスティンにはエドワードがとても女々しく見えた。 彼は本当に男なのか? 天下無双のエドワードも完璧ではなかったようだ!
「なんでそんな目で私を見ているのかい?」 息子の目には冷やかしが見て取れた。 その通り、彼は汗をかいてベタベタになるのが大嫌いで、暑い日が何よりも嫌だった。 なので、夏の間は外回りから戻った後は、いつも一目散にお風呂に飛び込んだ。 ずばりと言うと、エドワードは「王子症候群」に罹患していた。
ジャスティンは何も言わずに首を横に振った。 父親の質問に答えるつもりもなく、扉が開いたエレベーターから外に出た。 ジャスティンは、父親のおかしな行動について考える暇は無い。 そんなことより今はノートパソコンが大切だから。
エドワードもあえてジャスティンの態度を気に病むことは無かった。 今はそんなことよりシャワーを浴びることが重要だ。
ジャスティンは、社長のオフィスに入るや否や、ノートパソコンに駆け寄った。 目の前の電子機器以外の事はもはやどうでもよく、パパの不満も無視した。
ジャスティンの目には、 父親よりもノートパソコンの方が上だった。 そして、そう思っていることは誰が見ても分かった。
システムに更新された機能があるかどうかを確認する為すばやくノートパソコンを立ち上げた。 それから脇目も振らず、ひたすら遊んだ。 彼の小さな顔は幸せに満ち溢れていた。 ノートパソコンさえあればいつまでもそこで遊んでいられるように見えた。
エドワードはバスルームから出て、その光景を目にした。 息子がじっと座っているのを見て驚いたが、すぐにその少年がノートパソコンに熱中していることに気が付いた。 そしてジャスティンの邪魔をせず、仕事を始めた。
彼は実に多忙で、大企業の管理を担う為、莫大な量の仕事をこなさなくてはならなかった。 だが副社長が多くのことを処理しているから、 通常すべての業務をこなす必要はないのだ。 副社長は屈強な精神の持ち主で、仕事の重圧ともうまく付き合っていける。
ただその時に限って彼は海外出張中だったのだ。 外は暑かった! しかしその時、副社長の背中に突然悪寒が走った。 エドワードが彼のことを考えていたからかも知れない。
静かに時間は流れ、カチカチとキーボードを叩く音とフェイスブックの通知音だけが鳴り響いていた。 エドワードはこの音が気になって仕方がなかった。 彼には何かに取り組んでいる時、完全な静寂を必要としていた。 だから通常、許可なしに誰も余計な音を立てることは許されなかった。 それが暗黙のうちに社内規則となっているので、皆常に忍び足で注意深く行動し、万が一音を立ててしまった場合に備え、可能な限り彼と距離を置いた。
この規則は今日完全に破られた。 ジャスティンは父親の邪魔をするつもりは無かったが、しかしなぜ何度も何度もフェイスブックの着信音が鳴るのか。 いったいこの少年は誰とチャットしているのだろう? 5歳の子供がそんなにも言語に長けているのか? どうして彼は長文を打ち込んでいるのだろう? エドワードは興味津々で、遂にペンを置き彼を見た。
ジャスティンは目を見開いていた。 彼の目はときめきに溢れていた。 小さな赤い唇はしっかりとすぼめられ、小さな顔は興奮に明るく輝いていた。 柔らかな短い髪が額にはらりと落ちて彼の冷淡さを消し去り、優し気な少年に見せた。 外見はエドワードと瓜二つだったが、顔には父親のそれを超えた何かがあった。 父親のみならず母親の美しさも受け継いでいたのだ。
ジャスティンが視線を感じて、 顔を上げたその時エドワードと目が合った。 しかし、彼はフェイスブックに夢中で、父親のことなど気にも留めない様子だった。 だが実際、その取り乱したような息遣いと震える手からは、会って間もない父親に見られている緊張感がひしひしと伝わってきた。
エドワードはそれに気付かないふりをした。 もう仕事に集中できなくなったので、いっそジャスティンを眺め始めた。 この小さな男の子があとどれ位の間、無関心なフリをすることができるのか見届けたいと思った。 それを思うと可笑しくて、エドワードは思わず笑顔を見せた。それは邪悪で、とてもセクシーな笑顔だった。
そのような視線を向けられ、ジャスティンは益々緊張した。 エドワードはそれでも止めなくて、 小さな男の子を見つめ続けた。 ジャスティンは、今回は負けを認めた。 自分のパパには到底敵わないのだ。
「エロい目でじろじろ見るのを止めてくれる?」 ジャスティンが肩を振りながら言った。 今度はエドワードがきまりの悪い思いをする番だった。 父親らしい目、じゃなくて? 何がどうなったらエロい目に見えたのか? エロという言葉の意味を知っているのか? どうしたってこんな小さな男の子がそんな言葉を使うのか?
「ジャスティンちゃん、エロいってどういう意味か知ってるの? 意味も分からないのに使うものじゃないぞ」 最近の子供たちはこまっしゃくれている。
「うーん! ネットで調べればすぐ分かるよ」 ジャスティンは突然冷めた男の子に戻って、「おじさん、あなたは流行遅れだね」と言った。
「そんな事を調べるためにパソコンを使うのかい?」 エドワードは危険そうに目を細め、「ママはそんな風に躾けたの?」と言った。
「社長さん、いくらあなたが私のパパでも、ママのことは悪く言わないで。 僕はそんなに悪い子じゃないよ」と言った。 自分のことを誰が何と言おうと、ジャスティンは気にしない。 でも母親の事となったら話は別だ。 この世の何を以ってしても母親の存在は超えられないのだ。彼の前に居るこの男でさえも。
エドワードはジャスティンが怒っていることに気が付いた。彼の小さな白い顔がどういうわけか赤くなったから。 エドワードは微笑んだ。
「そうか、ママは良いお母さんだから、 こんな風にママを守っているの?」 もちろんエドワードは、ジャスティンが自分のことをそんな風に気に掛けているのを見たことが無い。 彼は嫉妬を感じた。
しかし、エドワードをジャスティンの母親と比べるには少々無理があるだろう。 母親は彼が産まれた時からずっと一緒だが、エドワードに会ってから一日すら経っていない。 勝負にもならない。
「僕は家族の中で唯一の男だから、当然ママを守らないといけないんだ」 ジャスティンはエドワードの愚かすぎる質問に呆れ顔をした。
その言葉はエドワードの胸に刺さった。 本来ならば、それは彼の責任であるはずだったが、彼の息子はこの幼さでそれを引き受けた。 自分の妻は確かに息子をよく教育しているようだ。 なぜか彼女のことをもっと知りたいようになった。
「トン、トン」
突然誰かがドアをノックした。それは恥ずかしさから彼を救った。さもなければ、どんな面を下げてジャスティンと向き合えば良いのか分からなかった。
「どうぞ入って!」 ノックの主にこれほど感謝したことはなかった。
「社長 こちらが直近のスケジュールです。ご確認お願いします」 事務局長のアンナは、旅程を丁寧に彼の前に置いた。
「重要度の低い案件は、わたしの代わりにアーロンに出席させて下さい。 今晩は先約があります」 どうやらエドワードは 夕方デートに行くようだ。
「はい。レン家からの招待は如何なさいますか? アーロンに行ってもらいます?」 何でもかんでもアーロンに任せて大丈夫なのかしら? アンナはそれがアーロンにとって不公平だと感じた。 いくら効率的なアーロンでも、手と足は二本ずつしか無いのだから。
んー。 エドワードは今日がレン氏の誕生日宴会だったことを 忘れていた。 この会には出席しないわけにはいかないだろう。 そうでなければ、レン家はエドワードの欠席を長い間根に持つかもしれない。 しかし彼の体は一つしか無い、どちらを選べばいいのか?
「いや、わたしがレン家に行きます」 まあ、顔だけ出せばレン家の顔が立つってものだろう。 彼とレン家は長い付き合いだったので、 早めにお暇しても問題は無い。
「承知しました! それでは、御用がなければこれで失礼いたします」 彼女は不思議そうにジャスティンをちらっと見た後、部屋を出て行った。
小さな男の子はノートパソコンで遊んでいたようだが、耳は常にスタンバイ状態で、父親の会話の詳細を聞き逃すことは無かった。 そうでなければ、どうやって次の作戦に進めるだろう?
時間は迫っていた。エドワードはジャスティンが今夜だけは先に家に帰って待つという設定をちゃんと理解しているかどうか確認する必要があった。さもないとまた先ほどのように駄々を捏ねるだろう。
「ジャスティンちゃん、おうちに帰るよ!」
「また出かけるの?」 少年は尋ねた。 なんて馬鹿げた質問だ。 もちろん彼はそうするだろう。 外出しなければデートにも行けないのだから。 エドワードはうっとうしく思った。
「会議に行かないといけないんだ、終わったら直ぐにおうちに帰るから」 と彼は言った。
「パパ、僕も行く!」 ジャスティンは可愛く言い、黒い眼は興奮に満ちていた。 要求を呑んでもらうには、まずこちらから優しくしないと。 だから父親を甘えた声で「パパ」と呼んだ。
ジャスティンは一日中彼のことを「社長さん」とか「おじさん」と呼び続けていたので、エドワードは驚いた。 「パパ」と呼ばれることは思っていなかった。 彼はとても満たされた気持ちになった。 はっと気が付くと、もうレン家への道中だった。
エドワードは苛立った。 この小さな男の子に完全に振り回されていたのだ。 それもただ「パパ」と呼ばれただけで… 今夜の予定は台無しだ。 子連れでデートに行くというのか?
ジャスティンは父親の渋い表情を見なかったふりをした。 とにかく、彼はとても嬉しかった。 最初の戦いに勝ったから。 そして次は... エドワードにとって、 次の戦いに心の準備をしたほうがいい。 なぜなら、「一生忘れられないような 豪華な食事をパパの為に準備してあげる。楽しみにしててね!」 と小さな男の子は頭の中で父親をからかっているから。