俺の妻はそっけない女
作者広部 咲織
ジャンル恋愛
俺の妻はそっけない女
「ムーさん、 起きて」 朝早く、ベッドの横に現れた小さな人影は、エドワードの腕をつかみ布団から引っ張り出そうとした。
エドワードは心地よい夢の続きを邪魔されてたまるものかと寝返りを打ったが、その少年は引っ張るのを止めない。 余りのしつこさにエドワードは苛立って頭をボリボリかきながら立ち上がって、 目の前にいる少年を見つめた。 今朝方布団に入ったのは 午前3時だった。 枕に頭を付け眠りに落ちるなり、 もうこのちび助に起こされてしまった。 しぶしぶ時計を見ると、 「まだ 6時!」 その瞬間エドワードの怒りは爆発した。
「ジャスティン・ムー、人のことを朝早く起こしたのにはちゃんとした理由があるんだろうな?」 エドワードは歯を食いしばって言った。 どうやらまた「王子症候群」の発作が起っているようで、 睡眠の邪魔をされるのが本当に嫌なのだ。 余りの苦痛に、ジャスティンに「ムーさん」 と呼ばれたことさえ気付かなかった。 不機嫌な気分が晴れるにはまだ時間が掛かりそうだ。
「パパ、今日は週末だよ。一緒にお出かけしよう?」 父親の機嫌がヤバい方向に向かっていると感じたジャスティンは、すぐさま舵を取り直し、帆を整え、その小さな顔をパパの腕に押し当てた。
エドワードは自分の人生がとても悲劇的だと思った! 今日は週末で会社が休みなので、昨日は夜遅くまで仲間と飲んだ。 ついつい、いつものペースで飲んでしまい、家に手のかかる小さな子供が居ることなどすっかり忘れていた。 エドワードは何も言わずに左右のこめかみに手を当て、 「まったく!一緒に出掛けるにしたって、なにもこんなに早起きする必要は無いだろう!」 と、うっとうしく思った。
「で、どこに行きたいの? こんなに早起きする必要ある?」 そう言いながらエドワードはベッドから降りて、ほぼ裸で浴室に向かって歩いて行き、ジャスティンは父親のその姿にあきれ返った。
ほぼ裸の父親は腹筋を晒しっぱなしにしていた。 そんなものはママと軍隊にいた時に いやというほど目にしてきたが、 実際、父親の身体は悪くはない。 鍛え抜かれた身体には脂肪の痕跡も無く、傷跡の一つもない肌は驚くほど滑らかだった。
「パパ、ビーチに泳ぎに行こう」 ジャスティンは海に行く時いつも母親と一緒だったが、父親と一緒に泳いだり遊んだりできる他の子供たちをいつも羨ましく思っていた。 やっと父親と一緒に遊べる今、どうしても海には行っておきたかったのだ。
「泳ぎに?」 エドワードは硬直した。 こんな暑い時期にビーチなんかに行ったら日焼けしてしまう。
「そんなら家にプールがあるんだろう?」
「家で泳ぐなんてつまんない」 ジャスティンは顔をしかめ、 その目には失望の色が浮かび上がった。 エドワードは暑さが嫌いなことを知っていたので、 ビーチが暑くなる前に行こうと早起きしたのだ。
分かったよ、行けばいいんだろ! この子は俺を拷問するために天から送られて来たに違いない。 そう思ったが、エドワードは息子のガッカリした顔を見て、行かないとは言えなかった。
海までの道中、ジャスティンは興奮して話しまくっていて、 さっきまでの失望した冷たい顔付きはどこへやら、ウキウキしていた。 それを見てエドワードは満足した。
「ねぇ、ムーさん、 泳ぎ終わったら遊園地に行こうか?」 エドワードはハンドル操作を危うく誤りそうになって、 車が少し横滑りした。 彼は手入れの行き届いた眉をひそめた。 ほらみろ! デイジーは俺を苦しめるためにわざとこの可愛い小悪魔を送り込んだに違いない。
「坊や、遊園地は来週にしてくれる?」 ジャスティンに懇願した。 こんな暑い日に遊園地で遊ぶなど想像すらできないし、きっと生きては帰れないだろう。 考えるだけで死ぬほど嫌だった。
「それならいいよ! 約束だからね!」 これがすでにエドワードの最大の譲歩であると分かっていたので、これ以上しつこくお願いはしないことにした。
ビーチはみんなが大好きな場所だった。もちろんエドワード以外のみんなだが。 波は輝く日差しの下で、空と同じくらい青くて、 エドワードはかすかに目を細めた。 そしてビーチにいる大勢の人だかりを見て、もう逃げ出したい衝動に駆られる。
「ジャスティン、戻ろうか?」 エドワードは国内の海で泳いだことは一度もない。 大きな理由の1つは、人ごみの中でぎゅうぎゅうにされながら泳ぐなんて、それほど恐ろしい事は無いからだ。 エドワードはまだ海パンに着替えてもいなかった。 ビーチにいる人々がじろじろ見ている。 他人の視線には慣れているが、凝視されながら服を脱ぎ、裸になるとなったらまた話は別だ。
「やだ。 そばで見ててくれれば、ひとりで海に入るから」 水着に着替えるのも待ちきれないジャスティンを、 戻るように説得することは不可能だった。 彼にしてみれば、朝から散々苦労してやっと父親をここに連れて来たのだ。
エドワードは諦めの心情で持ってきた海パンを見た。 少なくとも水着に着替えない、という選択肢は残されている。 そして、覚悟を決めたようにジャスティンを引っ張って海に飛び込んで行った。 護衛として同行したルークはいつものクールな表情で親子を見守っている。 多くの人が集う中、予期せぬ事態に備えて一瞬の抜かりも無く目を光らせていた。 ルークの緊張に満ちた眼差しと、彼の場違いな服装は、多くの視線を集めて、 通りすがりの人は彼を二度見するためにわざわざ振り返った。 どうやら訳ありの男が居る、と思われてしまったようだ。 彼は灼熱のビーチでフォーマルな服を着ていた。
だから変人扱いされても仕方がない。
しばらく水遊びをして満足したのか、ジャスティンはついにエドワードを解放し、家に帰ると言い出した。 着替えの便利さを考慮して、エドワードはルークに高価なキャンピングカーを車庫から出しておくように頼んでいた。 朝、車がガレージから出て来るのを見て、驚きのあまり口をポカンと開けていたジャスティンの顔ったら。
帰り道、ジャスティンは明らかに静かだった。 ママに会いたくなってしまったのだ。 ビーチでパパとママと一緒に遊ぶ子供たちを見て、羨ましくて仕方がなかった。 ママと一緒だったときには、そこにパパはいなかった。 それでやっとパパと遊べたと思ったら、今度はママがいない。 なぜ他の子たちのように両親と一緒に遊べないんだろう?
エドワードは不思議そうに息子を見ると、 「なんで海に行った後機嫌が悪くなったんだ? めちゃくちゃ楽しんでたはずなのに」と考えた。
「可愛い坊や、どうしたの? どうして不機嫌そうにしてるの? また海に来たくなったら、連れてきてあげるよ」 エドワードはビーチに行くのは死ぬほど嫌だったが、息子の悲しい顔を見るよりはずっとましだと思った。
「パパ、僕ママに会いたい。 あとどのくらい待てば会えるの?」 ジャスティンは期待を込めてエドワードを見た。
エドワードはまさかそんなことを自分に聞かれるとは思ってもいなかったので、 返事に困って咳をした。 お察しの通り、 デイジーは彼に電話すらしていなかったのだ。 ジャスティンがここに来てからほぼ半月経つのに、と彼は思った。 実際どれだけ経ってもエドワードに電話は来ないだろう。 なんて言ったって彼女は、 ジャスティンの番号しか知らないのだから。
「可愛い坊や、ママが恋しいなら、電話をしてみればいい」 それを聞いてジャスティンは、また父親を軽蔑した。
「ママは極秘訓練の最中で、電話は使えないよ」 そもそも、もし自由に電話が掛けられるなら、息子を父親に預けてはいなかっただろう。
エドワードはまた自分の息子に軽蔑されたことを不服に思って、 うんざりした様子で真っ直ぐな鼻を触った。
「じゃあ、ママが前に訓練に行ったときには、どこに居たの?」 エドワードは、彼らがメイプルナイトに住んでいなかったことを聞いてから、すべてに興味津々だった。
「ジュリアが側に居てくれた。 でも、国に帰っちゃったって。 それに、こんなに長い訓練は今までに無かったし、前には電話もできた」 ジャスティンは、年齢にそぐわない悲しみに満ちた小さな顔で力無さげに言った。 息子の表情はエドワードを苦しめた。 なぜなら、その少年を慰める方法さえも分からなかったから。 なので、意識的に車のスピードを上げた。
その頃、訓練の最中にあったデイジーもまた、息子が恋しくて仕方なかった。 あの子は良い子にしてるかしら? 離れ離れになったのは今回が初めてではなかったが、こんなにも息子を恋しく思ったのは初めてだった。 もしかしたらそれは、息子がエドワードと一緒だったからかもしれない。 ジャスティンのことを考えるたびに、エドワードの姿が頭に浮かんでしまう。
エドワードを愛していたが、だからどうという事ではなかった。彼が彼女のもとに現れ、心をずたずたにしない限り、彼の幸せな生活の邪魔をしたくはなかった。 そうすることによって、彼女は静かに彼への執着にふけることができたし、心を乱されることも無かった。
「大佐、30分後に査定会議があります、もう出発されますか?」 マークは、最近ボーっと物思いにふけることの多い大佐にそっと次の予定を耳打ちしてあげた。
「行きましょう。 まず資料の準備をお願い」 そう言いながらデイジーは地面から起き上がり、服に付いた砂埃をパンパンと払った。 常にさまざまなコンペや、終わりのない会議がある この種の訓練は、間違いなく最も厳しいものだ。 前回の査定を終え、やっと短い休憩を取れたが、また次の査定会場に向かわねばならなかった。