俺の妻はそっけない女
作者広部 咲織
ジャンル恋愛
俺の妻はそっけない女
エドワードはムカムカしながら会社に戻った。 スタッフが険しい表情の彼を見た時、これ以上怒らせれば、次は自分が砲弾のえじきにさせられると思って、彼を避けることに全神経を集中させた。
「アーロンにすぐにここに来るように伝えてくれ」 そう言い放つと、 エドワードは凍り付いた表情で乱暴にドアを閉めた。 一体何があったというのか?彼の怒り様に秘書たちは震えあがった。
エドワードは落ち着きを取り戻すため、ネクタイを少し緩めて緊張をほぐした。 一歩間違えば、あの性根の曲がった女性を惨めな方法で葬り去っただろう。 息子のことを私生児呼ばわりするとは!
「社長、何か御用ですか?」 アーロンは走り回って着崩れてしまった服を直しながら言った。 彼は事務局長のアンナから今朝、社長に何か良からぬことが起こったと伝え聞いていた。
「今すぐ近くの一番の幼稚園を探してコンタクトを取ってくれ。転園の必要がある」
「まったく、ジャスティンの幼稚園にいる奴らは低層階級だ!」 エドワードが思い出すだけでもイライラする。 あんな場所に一日でも居させられない。 彼の女はメギツネとけなされ、息子はここ数年、私生児呼ばわりされていたのだ。 俺の女がメギツネで息子が私生児なら、俺は一体なんて呼ばれていたのだろう? 無責任なカス男? 「そんなバカな!」 Sシティの王者である俺が 無責任なカス男に成り下がるなんて! エドワードは非常に腹を立てていた。もっと正確に表現するならば、怒り狂っていた。 無意識のうちにデイジーを俺の女と呼んでいたことにさえ気付かないほどに。
「えっ? 転園?」 アーロンは混乱していた。 「社長はいつの間に幼稚園に通っていたのだろう?」 昨日現れた小さなイケメンのことなどすっかり忘れて考え込んだ。
「何か問題でもあるのか?」 エドワードは不快そうな表情で言った。 余計なことを言えば、八つ裂きにされて喰われそうだ。
「問題ございません。 しかしまた、なぜ幼稚園? 学び直し、ですか?」 アーロンはお手上げ状態になった。 誰が転園する? この様子じゃ、僕が幼稚園からやり直すように言われるんじゃないか? もう何年も前にちゃんと卒園したのに!と心の中で叫んだ。
「アーロン、どうやら幼稚園でお勉強しなきゃいけないのはお前だな」 エドワードは冷たく微笑んだ。 脳みそをどこかに忘れてきたのかと思うくらいに、 今朝のアーロンの思考回路はおかしかった。
「いいえ、もう卒園したので 戻ってお勉強しなくても大丈夫です」 やっぱりな! 絶対言うと思った! いかにもボスが考えそうなことだ。 まあ、はっきり聞いたのは良かった。 お陰様ではっきり断れたしな!
「だったら、そんなに意味不明なことは言わないでいい。 分かったら早急に調べてくれ」 彼は呆気にとられたアーロンを尻目に見て、仕事に取り掛かった。
アーロンは何か言いかけたが、結局何も言わず、ただ言われた通り幼稚園を探すことにした。 エドワードは言われた通りに幼稚園を探していく助手の背中を満足そうに眺め、そして微笑み、仕事に戻った。 厄介な仕事は全部丸投げ。 「またバカにされたな」と、 アーロンは心の中で思っていた。
「ふん! 一番の幼稚園を探せだって?」 アーロンは明らかにイライラした。 どんな厄介な仕事だって、このアーロンにかかればお茶の子さいさい、 僕の仕事っぷりをなめるなよ、と思った。 実際彼は、数回電話をかけてインターネットをささっと検索してこの仕事を終わらせた。 やっぱり僕は全能だな! 社長は ハーバード大学卒のこの優秀な助手を過小評価し、見下したような態度を取っていた。 心の中で社長への不満を垂れながら、アーロンはやっと昨日エドワードが抱いていた小さな可愛い男の子のことを思い出した。 心配しても意味がないと分かりながらも、事情が少し気になった。 余計な心配事を振り切るように彼は社長室に入って行った。
「社長、このあたりのレベルが高い幼稚園をリストアップしました。 この中から気に入りそうな所を選んでください。 ちなみに、次回は明確なご指示を頂けると有難いです。 半分だけ仰っても、もう半分を察するのは難しいので」 この男はいつもそうだった。言葉半分のくせに読心を誤ると大変なことになる。 まったく面白くない。 アーロンは独り言のようにつぶやいた。
エドワードはすぐにチャートから幼稚園を選んだ。「ここがいい!」 そしてリストをアーロンに投げた。
アーロンはその文書を受け取った。 それは彼のお決まりのスタイルだった! エドワードは単純に最も学費の高い学校を選んだ。 さすが想像をはるかに超えるような 巨万の富を築いていた男だ。
「承知しました。速やかに入園の手続きを進めます」 アーロンはそう言いながら内心、なんでそんなに高額な幼稚園に入れる必要があるんだろう、と思ったが、別に彼がお金を払うわけではないので関係無い、と思い直した。 指示通りにきっちり仕事をこなす。 それがここで生き残る術だった。
「ところで、Wガーデンの開発を再計画してくれ」 そう言いながら、社長は彼に大量の書類を投げ、 アーロンの顔も見ずに、自分の机の上の書類を読み続けた。
「恐れ入りますが、これは副社長の管轄です。 なぜ私に?」 彼は仕事の出来る男ではあったが、スーパーマンではなかった! 既にに他の多くの開発を手にして、いっぱいいっぱいだった。
「副社長は今海外にいるから。 君が代わりに行くか?」 エドワードは試すような目でアーロンを見た。
「ええっ! いや、海外には行きたくありません! 分かりました。僕がやります!」 アーロンはパニックしながら逃げ出した。 できるだけ早く、できるだけ遠くに。 副社長は一体どこに居るのかというと、 R国! そこは荒れ果て、さびれた国で、 アーロンはR国だけには行きたくなかった。
その頃、副社長はくしゃみをしていた。
エドワードは言葉を失っていた。 R国ってそんなにひどい? 腰抜けが! アーロンがもしエドワードの心の声を聞いていたら、きっとこう言うだろう。 R国がひどいかって? 直接自分の目で確かめていけばいいだろう。 そんなに冷静沈着ではいられなくなるはずだぜ。
だが実際のところ、彼の上司は相当な変わり者なので、 R国へ行ったとて、いつも通りに落ち着いているだろう。 まあ、 所詮は過程論なのだが。
「アンナ、コーヒーをお願い」 エドワードはインターホンを押した。
しばらくしてノック音がきこえ、 アンナが入ってきた。「社長、コーヒーをお持ちいたしました」 彼女は取りやすく、仕事の妨げにならない最も的確な場所にそのコーヒーを置いた。
「はい、 ご苦労様」 アンナは、エドワードに個人的な感情を抱いていない唯一の秘書で、 彼女のプロ根性はエドワードにも認められる。その一方で艶聞の多い彼も、仕事場には決して恋愛感情は持ち込まなかった。
「他に御用が無ければ、失礼いたします」 実際のところ、アンナも彼を崇拝していたが、 この男の「お相手」になる事は出来ないことをよく分かっていた。 負け戦はしない質だったのだ。
「待って、ここ数年のメープルナイトに関する支出を計算するのを手伝ってほしい」 エドワードはこの気掛かりな件を自分の目で確認することにしたのだ。
「メープルナイトの人件費は会社負担です。 何か問題でも?」 アンナは、なぜ上司が突然長年放置されていた案件を確認する気になったのか疑問に思った。
「問題というか… クレジットカードから 引き落としされているはずだから、その明細の確認をしようかと」 話をはぐらかしたかのような気がして、 エドワードは少しきまりが悪かった。
「承知しました。すぐに確認します」 そう言うとアンナはくるりと背を向けた。 彼女は、干渉してはいけないことには決して立ち入らない。
エドワードはコーヒーを手に取り、一口飲みながら とても退屈だと感じた。 最近、その女性のことが気になって仕方ないようだ。 なぜ彼女の全てを知りたいと思うのだろう?
彼はまるで自分の考えを吹き飛ばそうとするかの様に頭を振った。息子を知るために彼女をしりたいのだ。 ただそれだけのことで、大体あの女性には興味が無かったはずだ、と何度も自分に言い聞かせた。
その時再びドアがノックされた。
「どうぞ入って」 アンナは常に仕事が早かった。
「ボス、これがそのクレジットカードの口座情報です。 使用された形跡はありません」 アンナは誰がこのカードの所有者なのか知らなかったし、また知りたいとも思わなかった。
「えっ? ちょっと見せて」 エドワードはそれを見て眉をひそめた。 あの女性は本当に普通の女とは違う。 自由に使えるはずのカードを使わなかった。 彼女のことを調べれば調べるほど、物事はますます想定外になっていた。 メープルナイトに住んでいると思い込んでいたが、実際は軍隊の寮で暮らし、持たせたクレジットカードには手も付けていない。 エドワードは無力感に襲われた。 彼女に施したはずの「情け」が彼の罪悪感を軽くしていたのに、 思い通りになるような女ではなかったようだ。
突然彼女がオウヤン家の娘であることを思い出した。 オウヤン家は以前ほど羽振りが良くは無かったものの、彼女の人生を保証するぐらいの富はあったであろう。 そう思うとまた少し気分が軽くなった。
もしエドワードは、デイジーが彼と結婚して以来、実家のオウヤン家とは連絡を絶っていると知っていたらそう思えただろうか?
「社長、いかがなさいましたか?」 彼が突然青ざめたのを見て、アンナは少し心配になった。
「別に 何でもないのだ。 仕事に戻っていい」 自分が過去数年間送り続けてきたお金にデイジーは少しも触れていなかった、という衝撃から幾分回復した。 彼の視線はなおもアンナが持ってきた送金記録に固定されていた。好奇心はやがて不快な苦痛へと変わっていった。 しばらく考えた後、彼は電話を取り出し、掛け慣れた連絡先を呼び出した。
「デューク、今夜時間ある? 飲もうぜ!」
「いいね! どこで?」 受話器の向こうから手短な返事が聞こえた。
「セクシーワールド」 そこは町で一番のバーで、 VIPメンバーシップ無しでは入れない会員制のバーだった。
「じゃ、その時に」 そう言うとデュークは電話を切ってしまった。 クソ、どいつもこいつもさっぱりしたもんだな。
エドワードは両手でこめかみを抑え、 もう考え込むのは止めにして、仕事を続けた。