監獄女王

市川誠との婚約は、血で交わされた契約だった。関東一円を牛耳る二大勢力を一つにするための。

彼は私の未来。私と並び、この世界に君臨するために選ばれた王。

誰もが、私たちの結びつきは運命だと言った。

でも、あいつが纏って帰ってきたのは、安っぽい香水の匂いと、他の女の嘘の味だった。

匂いの主は、天野沙良。市川家が引き取ったか弱い孤児。誠が妹のように守っていると誓った、あの女。

私は彼を追って、会員制クラブへ向かった。

影から見ていた。彼が彼女を腕に引き寄せ、飢えた、必死のキスを浴びせるのを。

私には決してくれなかった、あのキスを。

その瞬間、私の未来は粉々に砕け散った。

ようやく理解した。彼の部下たちが囁いていた噂の意味を。

私はただの政略的なトロフィーで、天野沙良こそが彼らの真の女王なのだと。

彼は私の帝国を欲しがった。でも、彼の心は彼女のものだった。

慰みものになんて、ならない。

誰かの二番手になるなんて、絶対に。

私はまっすぐ父の書斎へ歩いていくと、氷のように冷たい声で言い放った。

「婚約は、破棄します」

父が何か言おうとするのを遮り、私は最後の一撃を食らわせた。

「森咲組の同盟は、私が守ります。龍胆寺組の組長、龍胆寺正と結婚します」

父の手からウイスキーのグラスが滑り落ち、床で砕け散った。

龍胆寺正。それは、私たち森咲組の最大の宿敵だった。

第1章

泉 視点：

市川誠との婚約は、まだ幼い頃に血で交わされた契約。関東の二大勢力、森咲組と市川連合を一つにするための約束だった。

でも、彼の唇から見つけた嘘は、安っぽい香水と知らない女の味がした。

この街、ガラスと鋼鉄でできた広大な王国は、いつか私のものになる。

私は森咲泉。森咲組組長、森咲宗一郎の娘。

石畳の道も、薄暗い路地裏も、すべてが私の相続財産。生まれながらにして、この身に定められた宿命。

でも、静寂が訪れる瞬間、私の名前の重みが王冠よりも重く感じられる時、私が欲しかったのは、ただ彼だけだった。

市川誠。

彼は私の未来、私の半身、私と共にこの世界を統べるために選ばれた男。

市川連合の跡取りであり、その実力と頭脳は、東京から大阪まで、畏敬の念を込めて囁かれるほど。

未来の組長として、彼に不足しているものは何もなかった。

誰もが、私たちは運命で結ばれていると言った。

西麻布のカフェでエスプレッソを啜る古参の幹部たちから、私たちの資金を洗浄する慈善団体の奥様方まで、誰もが知っていた。

森咲泉は、市川誠のものだと。

彼が近くにいると、いつも心臓が教えてくれた。

肋骨の裏で、狂ったように激しく脈打つ。少女の頃から慣れ親しんだ、このリズム。

私はペントハウスの床から天井まである窓のそばに立ち、彼を待っていた。

いつも彼が纏っている、あの香りを待ち望んでいた。

白檀と革が混じった、清潔でシャープな香り。

それは力の匂い、安心の匂い。私の魂に棲む荒ぶる獣を唯一飼いならせる、特別な香り。

エレベーターのドアが、静かな音を立てて開いた。

彼が降り立つ。その広い肩が、戸口を埋め尽くす。

でも、彼が連れてきた空気は、何かが違った。

汚されていた。

いつもの白檀の香りの下に、まとわりつくような甘ったるい匂いが彼の服に染み付いていた。

胃が締め付けられるような、安っぽい合成的な花の香り。

クチナシ。

その匂いは知っていた。天野沙良の香りだ。

彼女は、市川家が何年も前に引き取った孤児。

大きく無垢な瞳と、男たちに庇護欲をかき立てさせる儚さを持った少女。

特に誠は、彼女をガラス細工のように扱い、この世界から守らなければならない大切な妹だと公言していた。

私たちの、この世界から。

私は窓から振り返り、平静を装った完璧な仮面を顔に貼り付けた。

「彼女と一緒だったのね」

それは質問ではなかった。

誠の笑みは、彼の仕立ての良いスーツのように滑らかで、しわ一つなかった。

彼は私に向かって歩いてくる。その動きは流れるようで、自信に満ちていた。

「送ってきただけだよ。あの子、今日は大変だったみたいでさ」

彼はキスをしようと身を乗り出したが、私は一歩後ずさった。

匂いはさらに強くなり、息が詰まるような嘘の雲が立ち込める。

呼吸が、急に苦しくなった。

かつては心地よい沈黙で満たされていたこの部屋の空気が、今や裏切りで重く淀んでいる。

「先に寝る」

彼はそう言って、もう興味を失くした目で袖のボタンを外し始めた。

「待ってなくていい」

私は一つ、ぎこちなく頷いた。

「おやすみ、誠」

でも、私は自分の部屋には行かなかった。

シャワーの音が聞こえるまで待った。彼の欺瞞の証拠を洗い流す、規則正しい水の音。

そして、私はペントハウスを抜け出した。

彼がどこへ行くのか、聞く必要はなかった。