甘やかされた女
ヤコブの顔をこんなにも近くで見ることはエミリーにとって初めてのことだった。ヤコブのまつ毛の1本1本まで見えるほどにその近い距離は互いを催眠術をかけ、エミリーの募る想いに火をつけた。 彼が瞬きをするだけで、 あたかも夜空に星が輝いているようだった。
実際のところ、ヤコブはハンサムだった。 深い色の瞳、高い鼻、薄めの唇。特にその深い色の瞳はまるでブラックホールのように、エミリーを徐々に彼の魅力的に吸い込んでいく。 ヤコブの顔はまるでデッサンの彫刻のように完璧とも言えるほど整っており、行く先々で周囲の人々が驚くほど目を引く存在なのだ。
エミリーはヤコブがハンサムかどうかなど気にしたことはなかった。ジャックとの交際中に感じていた彼の印象は、真面目でヤリ手経営者で一族のトップということだけだった。 しかし、今、ヤコブが端正顔立ちの大人の男性であること、エミリーがどれほど彼に惹かれているかを思い知らされていた。
ヤコブの深淵を思わせる黒い瞳は、エミリーに対する強い愛情で満ちていた。 その黒い瞳でエミリーを射抜くように彼女を見つめていた。
「君がジャックを捨てた。そうだろう?」
エミリーは唇を嚙んだ。 「えぇ…そうです。ジャックとはすでに別れました」
ジャックと別れていなければ、あの夜、エミリーはヤコブに会っただろうか。今、エミリーの気持ちは、絡まってほどかなければならない毛糸のようだった。
「だとしたら、何か問題でも?」
たとえエミリーがジャックと別れていなかったとしても、そんなことは自分にとって問題にすらならいとヤコブは思っていた。ヤコブは欲しいものは手に入れるはずだ。 しかも、エミリーの恋人であったジャックはヤコブの未熟な甥で、ヤコブにかなわないどころか頭が上がらないからだ。
「何も問題はなくとも、これは間違っていると思います」 エミリーの目は涙とともに赤くなっていた。 そしてその声は、後悔と恥ずかしさに満ちた小さな声だった。 「ヤコブさん。あの夜のことは忘れてください。おねがいします」
エミリーはとても古風で保守的な考えを持っていた。 ジャックと数年間交際していたが、一度も身体を重ねることはなかった。そんなエミリーが、名前程度しかしらないジャックの叔父であるヤコブとセックスをしたのだ。 たとえジャックとヤコブに血縁関係がないにしろ、エミリーはヤコブとのあの夜の出来事を簡単に受け入れることはできなかった。
ヤコブからの交際の申し出は受け入れられなかった。このとき、エミリーに残された唯一の選択肢は甘んじて彼の申し出を受け入れ対立を避けることだけだったのにだ。
エミリーはヤコブの目には哀れな怯えた小鹿に見えていた。
ヤコブはあらためてエミリーの瞳をみつめてみた。すると、彼の心を何か優しいものがノックする。彼は感じていた。
「エミリー。君は私から逃げることはできないよ」
ヤコブは口調はクールなままだったが、ゆっくりと握っていたエミリーの手を緩めた。 「君が欲しい。私の妻になってほしい」とヤコブはエミリーに伝えた。
「どうしてそういう話になるのですか!」
「望みさえすれば何でも叶うからだ」
「でも私はなりたくありません。 あなたと一緒にいたくありませんわ!」
ヤコブはエミリーの正直な気持ちを受け入れることができなかった。 まるで言うことをきかないペットに悩む飼い主のように、彼はエミリーを見ていた。
「君は賢い女性だと思っていたが…。 何が欲しいのか? お金か? 名誉か?ステータスか?それ以外にまだ何かあるのかい?」
「私はそれらのどれも欲しいとは思いませんわ!」 ヤコブの恩着せがましい口調にエミリーは侮辱を感じた。 エミリーが「なぜ私なの?」と尋ねたときに感じた感謝は跡形もなく、すでに心から消えていた。
彼女はヤコブの心を信じることができなかった。 ヤコブのようなセレブリティとともに過ごしたいと思う女性は、確かにたくさんいることだろう。 なぜ彼は自分を選んだの?
「…理由などない」ヤコブは少し間をおいてそう答えた。
おそらく、それは2人のあの夜のワンナイトラブのせいだろう。 アルコールのおかげで、エミリーは燃えるように愛を欲していた。そのエミリーの激しい欲望がヤコブの石のように固く冷たい心を溶かしたのだろう。 あの夜、ヤコブは人生で最も激しく情熱的なエクスタシーを感じたのだった。
純粋でエネルギッシュな魂を持った若い身体。この小柄な女性はヤコブの鎧を脱がせて興奮させたのだった。
そして一方で、やっとエミリーは理解していた。あの夜、自分がどういう人物を誘惑したのかということを。 そう。すでに彼女の周囲には蜘蛛の巣が張られ、ヤコブから逃げられない状況下にいるということを。
しかし、それでもエミリーは屈しない。
「ヤコブさん、 私にはその気はまったくないんです。どんな手段を用いてでも 私を振り向かせようだなんて思わないでください。それが私の願いです」
ヤコブはしっかり目を閉じた。自身の深い海の色と同じ黒い瞳を。 エミリーは彼を怒らせたかどうか、その姿だけでは判断しかねた。
ヤコブは洋服を着替えるように、好きな女性と簡単にセックスしてきた。望み通りに。 そう。彼は女性に断られたことなどなかったのだ。ましてやこんなにキッパリ、ハッキリと。
エミリーは初めての女性だった。彼の誘いを断った地球上最初の女性。
「そんな大口を叩いて大丈夫なのか?」申し訳のかけらもないエミリーの顔を見たヤコブが突然冷たい笑みを浮かべた。 「君が私のもとにやってきて、懇願する日を楽しみにしているよ」
この小柄な女性はヤコブの挑発から逃げたかった。人生が平坦な道だけではないことはわかっていた。
エミリーは心の片隅でヤコブの声のトーンの曖昧さを感じていた。 そして答える前に彼女は歯を食いしばった。 「ヤコブさん。私は約束します。そのような日が決して来ないことを」
「まあ。そのうちわかるよ」 ヤコブにとってエミリーを跪かせることはたやすいことだろう。しかし、彼女を強引になびかせようとはおもっていなかった。
エミリーには、自身の意思で彼のもとへ来てほしいと思っていた。
話に一応の決着がつくと、エミリーは車のドアを開け、檻から逃げ出たウサギのように駆け出していった。 ヤコブが見ることができたのはエミリーの背中だけ。エミリーは歩道の端に立ってタクシーを拾っている。その間、彼は静かに彼女を見つめていた。
「エミリーは私から逃れることは決してないだろう」 タクシーを拾うエミリーを見つめるヤコブにジワジワと自信が満ちつつあった。
エミリーは家に帰るとすぐに、アパートの部屋のすべての電気をつけた。明るく照らされた部屋は、 エミリーに安心感を与えた。 寝る際も常夜灯をつけておいた。
ヤコブがエミリーに言ったことは、冬の朝の霧のように彼女の心をモヤモヤさせた。 エミリーの混沌とした気持ちは、ジャックに浮気されていたと知った日よりも酷いものだった。
ヤコブが自分に妻になってほしいだなんて… なんて馬鹿げた考えなのだろうか。
エミリーはどんな顔をしてヤコブに「はい。なります」と言うのだろうか。 実のところ、彼女はヤコブを挑発してしまったことは心配はしていた。ヤコブの地位だ。彼女の人生を変えることくらい朝飯前なことくらい想像できた。だから、ヤコブの申し出を断ったとき、彼は自分に跪く日が来ると言ったことも、 エミリーは荒唐無稽なことではないと感じていた。
「エミリー、忘れるの。臨機応変にうまく立ち回るのよ」そう念じてエミリーは眠りについた。
エミリーは翌日いつも通りに出社した。その際、彼女は昨夜ヤコブが社にやってきたことには一切触れなかった。 すべて自分の責任だとし、壊れたドアの修理代金も自分で支払った。
しかし、ローズはそれほど簡単にだまされる女性ではなかった。
壊されたドアはとても固くて頑丈だった。 小柄なで華奢なエミリーがどうして頑丈なドアを壊すことができたのだろうか。突風にも押し戻されるくらいに華奢なのに。 さらに、被害報告によると 、外からドアを蹴り落としたというではないか。
外から頑丈なドアを壊した人は誰だというのか。 それはエミリーのまだ見ぬの恋人に違いない。 ローズはその点に気付かなかった自分が悔しかった。しかも停電にしてしまったので監視カメラも停止してしまい、 エミリーの恋人の証拠をも逃してしまっていた。
数日後、エミリーとローズが勤めるホーガン社にいくつか大きなニュースが舞い込んだ。
ファインジュエリー協会が、このD市で国際ジュエリーデザインコンペティションを開催するというニュース。そしてそのコンペにはすべてのジュエリーデザイナーがエントリーすることができるという。 そして、上司のファ氏はこのコンペティションへのエントリーにあたり、 いつくかオマケを追加すると言う。 なんと、このコンペティションの勝者をホーガン社のチーフジュエリーデザイナーとして契約することをデザイナーらに発表したのだ。
エミリーとローズはもちろんエントリーした。 2人は密かにライバルとして炎を燃やしていた。 最初の選考、準決勝を経ち、エミリーとローズはついに決勝までたどり着いた。
その間、ジャックはまだエミリーのまだ見ぬの恋人を見つけようとしていたが、彼は怒りを抑えられず、出合わせたその場でエミリーを窒息死させる恐れを抱き、彼女と決して顔を合わさぬように細心の注意を払っていた。 エミリーの裏切りは、ジャックの彼女への愛情をスライドさせるように敵意に変えてしまっていた。